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コラム

加太の鮮魚と行商の話

この記事は2020年5月31日 朝日新聞「加太まちダイアリー」に掲載されたものを一部編集したものです。

 春は、桜のように美しい色をした産卵期の真鯛が浅瀬にやってきます。加太は明石とともに日本一美味しいとも言われる桜鯛が水揚げされることで有名で、この時期はいつにも増して最高の鯛がいただけます。

 ところで、鯛に限らず加太の美味しい鮮魚は、地元飲食店の他、関西圏の飲食店や販売店に運ばれます。今でこそ様々な販売ルートがありますが、かつては加太の行商人たちが農山村地域へ配達していた時代もありました。

 昨今あまり耳にしない「行商」という言葉。広辞苑で調べると、「商品を持って家々をたずね歩き、商売すること。旅商い。」と出てきます。一般的には、行商とはその地域で多く手に入るものをそれが少ない地域へ運んで売ることで利益を得る商売の方法です。

すなわち行商人が外へ積極的に売りに出していたモノは、その地域を象徴する特産品といっても良いかもしれません。漁師町である加太も、海の幸を他の地域へ行商して届けていた時代がありました。

 加太の行商は、終戦直後の1946年(昭和21年)ごろ、当時配給制だった塩が農山村部で不足していると知った人々が、北の浜(現在の海水浴場)で塩を炊き、その塩を今の岩出市や伊都郡、奈良の五條市や吉野町の辺りまで売りに出ました。

 当時はまだ自動車が普及しておらず、電車に乗って200人ほどが日帰りで塩の行商を行なっていましたが、50年(昭和25年)1月に塩が配給制から自由販売制になる頃には、需要の変化に対応して、行商人は得意先へ持ち回る商品を塩から魚類や乾物類に切り替えました。

加太でとれたタイ

 60年代、日本の高度経済成長期には、得意先の農村各地にスーパーマーケットができ、行商人の持っていく商品は鮮魚以外売れなくなってしまいました。そこで行商人たちは、前日に魚の注文を受け、次の日に届けるという方法で、スーパーでは買えない鮮魚だけを持ち回り、農山村部へ売り歩くようになりました。こうした行商人たちのおかげで、「加太に行けばもっと美味しい鮮魚が食べられるらしい」という評判が広まったといいます。

 70年代後半になり、加太へ観光に訪れる人が増えるにしたがって、行商で生計を立ててきた若い人たちの多くが民宿や商店へ転職し、加太の行商人の数は徐々に減少していきました。それでも平成初期までは高野町方面へ車で鮮魚やお菓子を売りに出る行商人もいたようですが、現在では加太から外へものを運ぶ行商人はいなくなりました。

 冷蔵冷凍技術の進歩、スーパーやコンビニの展開、更にオンライン上で海外のモノまでワンクリックで買い物が出来てしまう現在の暮らしは、行商という販売形態からどんどん離れてしまうのも仕方のないことです。とはいえ、馴染みの人が地場産のものを届けてくれる様子は、お土産をはるばる持って訪ねてくる親戚のようでもあり、「旅商い」という響きもあいまって利便性にも勝るロマンを感じます。