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kada-lab
友ヶ島観光地化 町民ら団結
この記事は2020年4月26日 朝日新聞「加太まちダイアリー」に掲載されたものを一部編集したものです。
前回のこの欄(3月22日付)で、歴史情勢に応じた友ケ島の意義や役割の変化についてご紹介しました。今回はその続きで、戦後の友ケ島をめぐる加太のまちの奮闘をご紹介します。
長い間、軍事利用されてきた友ケ島ですが、終戦後1947(昭和22)年に入島禁止が解除されるのに先立ち、これから友ケ島をどのようにしていくか、検討されました。その結果、友ケ島4島のうち、沖ノ島は普通財産として大蔵省が所管することになりました。そんな折、戦後に世相が荒れて犯罪が増加したことを背景に、「友ケ島に刑務所を設置する計画があるらしい」といううわさが加太町民の耳に入りました。
これを機に、刑務所誘致に反対する住民が団結し、同年に「友ケ島開発実行委員会」が立ち上がりました。友ケ島を前向きに観光地にしようとするもので、委員長は当時の町長、原浩氏が務めました。その数カ月後には、県と市も、和歌浦と合わせて国際的な観光地にすることを目指して開発計画を発表しました。当時の新聞は「友ケ島に賭博場やダンスホールを設置し、東洋のモナコとする」という発言を伝えています。
友ケ島の今後の管理については加太内で話し合われました。沖ノ島を町で買い取ろうということになりましたが、当時の加太町は財政難で、島を買い取るだけの財力がありませんでした。そこで、加太の人たちは、全町民を株主とする「加太観光開発株式会社」を設立しました。その出資金で沖ノ島を国から買い上げることができたのです。
その後、友ケ島が瀬戸内海国立公園の一部に追加指定され、さらに数年後に沖ノ島は株式会社から加太町による管理へと移されました。加太町が和歌山市に編入されるにあたり、当時の高垣市長との協議の結果、和歌山市の所管となりました。
このように、戦後の激動の中、友ヶ島の運命も大きく変わりました。当時の町長を務めた原ひろし氏は歌集『紫紺の海』の中で次のような句を読んでいます。「刑務所に この島とられてたまるかと 町民こぞりいきり立ちしか」
この句からは、加太町民が友ヶ島に対する強い想いで団結した様子が伺えます。また、島周辺を漁場としている加太漁師たちにとっても、島の行く末は重要でした。そのため、刑務所設置反対運動の際、原町長を支援した人の中には多くの漁民もいたそうです。このような一連の動きからは、町民が一丸となって漁業と観光の両立に心を砕いてきたことが分かります。
最終的に「友ケ島のモナコ化」の実現には至りませんでしたが、当時の加太町民が友ケ島や加太を想う情熱と努力の延長に今の島とまちの関係があり、また時を超えて今の加太にも住民主体のまちづくり会社が興っていることは、決して先人たちの奮闘とも無関係なこととは思えず、とても感慨深い気持ちになります。