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コラム

時代の痕跡を残す紀淡海峡の無人島・友ヶ島

この記事は2020年3月22日 朝日新聞「加太まちダイアリー」に掲載されたものを一部編集したものです。

 昨年夏、学生達と友ヶ島の調査を行いました。調査では友ヶ島の整備状況や歴史的背景など知っているようで知らない友ヶ島を改めて確認する良い機会になりました。

 友ヶ島といえば加太にある無人島という印象も広まりつつありますが、実際は友ヶ島とは、地ノ島・神島・沖ノ島・虎島の総称で、「友ヶ島」という島は存在しません。現在入島が可能なのは沖ノ島で、加太からは船が出ており20分程度です。沖ノ島からは潮位次第では虎島にも行くことができますが、地ノ島と神島へは上陸することができません。

 友ヶ島は、全島で縄文・弥生時代の土器や製塩の跡があり、潮流の早い紀淡海峡は絶好の漁場でもあることから、かつて長い間人々の暮らしがあったとされています。歴史時代には葛城修験の行場が5ヶ所置かれ、島は修験者以外はほぼ立ち入らない土地になったとされています。

 時代は変わり、明治時代には異国船の渡来に伴う大阪湾防御の目的で砲台等が建築され、以降、第二次世界大戦までは要塞施設となりました。そのため軍事機密として、当時の地図や地形図から友ヶ島は消されてしまいますが、修験者は立ち入りが許可されていたようです。

 ちなみに軍事要塞には当時の最高技術が用いられることが多く、友ヶ島の要塞も各時代の建築構法を知る上で文化財価値が非常に高いとされています。戦後の昭和24年には、友ヶ島は瀬戸内海国立公園に加えられ、以後は南海電鉄グループにより観光開発が行われましたが、平成14年には南海電鉄は友ヶ島観光事業から撤退し、現在は和歌山市が管理しています。

友ヶ島第三砲台跡

 砲台跡の残る特徴的な景観から、SNS等で「ラピュタ島」として注目され訪れる人も増えてきており、気候の良い週末などは老若男女問わず多くの観光客で賑わいます。大自然でのハイキングやコスプレでの撮影、遺構を利用した「音の美術館」の企画が行われるなど様々な形の観光事業も展開されています。

 この友ヶ島の島としての面白さに厚みを持たせてくれるのが、無人島であるという事実だけでなく、東経135度の標準時子午線が通る国内最南端地点であることや、古くからの生活の痕跡、加太を漁師町たらしめてきた豊かな漁場、修験の聖地や軍事要塞としての役割、県の天然記念物に指定されている湿地性の植物群落など多岐に渡る要素です。

 歴史情勢に応じて島の意義や役割が変化してきたこと、そして今島を訪れると部分部分でその痕跡をたどれたり、垣間見ることができるのが大きな魅力だと感じています。時代に応じて意味を変えてきた友ヶ島の現在の役割がたまたま観光という状況ではありますが、これらが観光資源となっているのはこれまでの時代の痕跡が残っているからです。これまでの多層な歴史的深みに想いを馳せ、現在の観光化している状況の痕跡も含めて将来へと時代時代の痕跡を継承していくのが良いのではと考えます。